山城の楽しさにふれて

 関ケ原を一望できる松山城は、標高約290mの松尾山にあり、関ケ原の戦いの際、小早川秀秋が布陣し、ここから西軍の側面を突いて、一気に東軍を勝利に導いた場所。
 また笹尾山は、石田三成陣跡、決戦地北西に位置する小さな山が笹尾山で、「石田三成陣跡」の碑があります。合戦時に、関ケ原は交通の要所といわれているだけに、南西にある北国街道が軍事上重要なポイントになりました。


 松尾山の山頂に松尾山城を築城、関ケ原を一望できる松尾山城は、関ケ原の戦いの際、小早川秀秋が布陣したところ。ここは単純な陣ではなく、曲輪、堀切、土塁などが残されており本格的な山城であったことがよくわかる。
「松尾山山頂松尾城跡]

 岐阜県不破郡関ケ原町松尾地内で名神高速道関ヶ原ICから戦国ロードを西に1.8kmほど松尾地内を北に入る。山麓に駐車場有。

[松尾城登山口]
[城山林道]
「右は松尾山0.9㎞ ]
 目指す松尾山も見えている。いったん川沿いに南に下ると辺りで唯一の橋「なわて橋」。これを渡り、続いて黒血川を越えればすぐに城山林道口、右手に立派な舗装駐車場がある。屈曲が多い城山林道は歩きやすい平坦な道である。登り切った峠には「右は松尾山0.9km」の自然歩道案内標識がある。
「小早川秀秋陣跡]
 終始幅の広い尾根道を、三つばかり小さな起伏を越えればかつて山城のあった頂上に着く。途中で送電鉄塔の巡視路が何本か派生しているが、惑わされるようなものではない。幅広い主道を行く。
松尾山から伊吹山 ]

山頂からの展望はよく、正面に伊吹山。足許には山峡の関ヶ原町。右の彼方に濃尾平野が広がる。

松尾山・小早川秀秋陣跡
松尾山・小早川秀秋陣跡
松尾山から山峡の関ヶ原町
松尾山から山峡の関ヶ原町

 笹尾山は、関ヶ原の北西に位置して、伊吹山から南東に派生する尾根の末端に位置する。この笹尾山が関ヶ原の戦いで、西軍総大将・石田三成が陣を構えた地。山頂は関ヶ原を一望にできる展望地で、ここを中心に西軍は鶴翼の陣で布陣した。 
「石田三成陣跡]
 小早川秀秋が寝返りを決意し、迎撃した大谷隊は善戦むなしく壊滅、西軍は総崩れとなる。その時ここ決戦地の一帯は、最後に残った三成陣営は総崩れとなる。その時ここ決戦地一帯は、最後に残った石田隊や島津隊に押し寄せる東軍諸隊で埋め尽くされていたとされる。
[決戦地]
[笹尾山から決戦地を見下ろす]

 本陣を桃配山から三成本陣の笹尾山のすぐ下(直線距離にて500~600m)へ移動させた。ここからの伝令により松尾山の小早川秀秋に発砲を命じ、見事裏切りへと仕向け、関ケ原合戦を勝利へと導いた。合戦後この場にて引見が行われ、討ち取ってきた敵の首級が実検されました。その後、幕府の命を受けた領主の竹中家により周囲の土塁や中央の土壇が築かれました。土壇中央には「床几場(しょうぎば)徳川家康進旗験馘處」と刻まれた標柱が建っている。
石田三成陣跡
石田三成陣跡

 岡山烽火場跡は、国道21号線(関ケ原バイパス)の北側にある小高い山が、岡山(丸山)になります。関ヶ原合戦場の岡山烽火場跡には、黒田官兵衛の息子 黒田長政(幼名 松寿丸)と、竹中半兵衛の息子 竹中重門が東軍の一員として陣を敷いた岡山烽火場跡が残る。
[島津義弘陣跡]

 西軍布陣地のほぼ中央部に位置する。島津隊といえば、鉄砲を巧妙に使って戦ったことで有名。陣中では壕も掘らず、柵も作らず、鉄砲隊は交互に入れ替わり狙撃し、騎馬隊を撃ち落としたといわれている。また、的中突破の戦場離脱の話も有名ですが、それだけでなく、わずか800名程度ともいわれる少数部隊で、西軍を中央から援護していたという事実を踏まえて史跡を巡ると、陣跡の景色もまた違って見えてくる。

[脇坂安治陣跡]

 西軍として順に松尾山のふもとに陣取り、さらにその横には大谷吉継隊が陣を取っていました。しかし、小早川秀秋隊が寝返ると、4隊とも心が変わり大谷隊へ攻撃し、東軍を勝利に導いたのです。

[開戦地]

 関ヶ原の戦い開戦地は関ケ原字神田西田に位置しています。案内板によると慶長5年9月15日、霧が薄くなり視界も広がった午前8時。先鋒の福島正則は井伊隊の旗の動くのを見て、先陣の手柄を取られてなるものかと、宇喜多隊に一斉射撃を浴びせました。