久々利城は、可児市東部の久々利地区集落を南に見下ろす丘陵上に選地し、谷を隔てて二つの支脈に展開する山城。
■久々利城跡
城主は美濃守土岐頼康の弟・康貞以後、代々土岐三河守悪五郎(または土岐久々利五郎)を称し、東濃地方において勢力を高めていった。しかし、天正10年(1582)、土岐久々利氏は金山城主森長可に攻め落とされている。
麓の可児郷土資料館の駐車場を利用して登。駐車場前道路を横断して、右に折れると久々利城跡登り口がある。
探訪日2019/12/28
久々利城跡登り口
可児郷土資料館から道路を横断して右手の久々利城登り口より整備された石段を登る。
石段を登る
整備された石段
桝型虎口
石段を登ると各所に土塁が見られる。ここの曲輪全体が大きな桝形虎口となっている。中央付近には井戸跡もある。また、曲輪の西側下端では横堀を巡らし、南側と東側には、竪堀が配されている。
井戸
桝型虎口から三の丸へ
三の丸へ
桝形虎口を過ぎて三の丸の西側下端では横堀を巡らし、二の丸の西側下端や虎口の南側と東側には、竪堀が配されている。三の丸からは二の丸に向かう。
三の丸
三の丸から枡形虎口を見下ろす
三の丸から二の丸を見上げる
三の丸から東側の切れ落ちた道を通り左に回り込んで二の丸に入る。
二の丸への登り
二の丸
本丸東側の曲輪脇道
二の丸から切れ落ちた東側の二段の曲輪があり、本丸東側を巻くように尾根の登りあがり左に折れていくと本丸跡に着く。
尾根を左に折れて本丸
本丸
展望の良い本丸
久々利城の城主である土岐久々利氏とその家臣は、南東方向に屋敷を構え、戦いのときにこの城に登ってきたと考えられるとのこと。南国朝時代から戦国時代にかけて久々利氏、江戸時代に千村氏が久々利を支配した拠点とされていた。
展望の良い本丸
久々利城の城主である土岐久々利氏とその家臣は、南東方向に屋敷を構え、戦いのときにこの城に登ってきたと考えられるとのこと。南国朝時代から戦国時代にかけて久々利氏、江戸時代に千村氏が久々利を支配した拠点とされていた。
山頂部の曲輪は南北に長く、高さ約3mの石垣で二段に分けられている。下段が二の曲輪で上段が一の曲輪となる。
土橋から見晴郭跡へ
本丸からやせ尾根の土橋から見晴郭跡へ向かう。 見晴郭跡から久々利の集落が一望できる。また本丸と対峙する眺めが素敵です。
見晴郭跡
見晴郭跡から本丸を望む
二重堀切
見晴郭跡から土橋を過ぎて二重堀切へ。狭い鞍部に防御施設的な小曲輪や三つの堀切を配し、谷の再奥部では巨大な堀切により尾根筋を完全に遮断しつつ、いくつもの竪堀も設けている。
土橋
急峻な二重堀切
千村家の墓所
下山場所の東禅寺西側に千村家の墓所(市指定史跡)がある。この墓所には一代良重から十一代仲展までの暦代当主とその一族の墓石が並んでいる。
東禅寺
木村氏屋敷跡
※妻木城を終えて久々利城跡へ向かいました。