<<長良川源流TOP | 〇長良川中流域・塚原遺跡・弥勒寺跡・(関市)


 長良川は、岐阜市芥見地内の藍川橋から長良川は今川とY字となり関市地内に入る。関市千疋地内で今川と合流して千疋橋・鮎之瀬橋にいたる。長良川沿いに史跡の塚原古墳・弥勒寺跡・円空入定塚がある。

 
 
縄文時代にタイムスリップ!!
  この地には、広場の周りに数軒の竪穴住居や堀立柱建物などがあり30人前後の縄文人が暮らした「むら」の中心部を復元されています。昭和26年度に発掘調査され遺跡を保存整備されました。

塚原遺跡

 千疋大橋西詰め長良川右岸を上流へ向かったところに塚原遺跡がある。縄文・古墳時代の竪穴住居や古墳などを復元した遺跡公園。展示館にはこの遺跡から出土した土器や石器などが展示されている。

塚原遺跡公園

塚原遺跡公園

竪穴建物

地面を四角く掘りくぼめて建てられている。大きさは、縦5.72m、横5.35mになる。津kぁ原遺跡では竪穴建物は17件見つかっていますが、この建物はもっとも大きなもののひとつとなる。出土した遺物から、縄文時代中期後半(4,500年~4,000年前)の建物と考えられるとのこと。

掘立柱建物

 地面に直接柱を立てた建物で、大きさは縦4m、横6,66mになります。塚原遺跡では、掘立柱建物は19軒見つかっています。この建物はその中でも規模が大きなものになります。居住としてつかわれたのではとのことで萱葺の平地住居として復元された。出土した遺物から、縄文時代中期後半(4,500年~4,000年前)の建物と考えられるとのこと。

古墳

 直径約13m、高さは約3mの円墳です。周りには最大3mほどの周溝が部分的に掘られていました。横穴式石室は長さ7.33mで、山石や割石ではなく河原石を使ってつくられていることが特徴。出土した遺物から、古墳時代後期(約1,400年~1,500年前)のものと考えられます。

古墳

掘立柱建物


 弥勒寺跡は、美濃地方の豪族身毛津(むげつ)氏の氏寺と推定されている白鳳時代の寺院です。古代寺院弥勒寺はその後廃寺となっていたが、近世に「円空仏」の作者として知られる円空が再興。元禄2年(1689年)に園城寺(三井寺)の末寺となったことが記録されるとのこと。

国史跡・弥勒寺跡と官衙遺跡
 弥勒寺跡は、金堂・塔・講堂 ・南門・南門に取り付く掘立柱塀の一部・僧坊や、造営に関わる工房跡と思われる掘立柱建物・竪穴住居が確認されています。弥勒寺跡の東に隣接する弥勒寺東遺跡跡は、律令制下の武儀郡衙跡である。群庁院、正倉院、舘院、厨院など、郡衙を構成した全ての施設が把握できる全国的にも例にない遺跡です。

史跡・弥勒寺跡へ

 この寺院は、塔跡と金堂跡とが東西に並び、南に面している。塔跡の基壇は約11.5mの正方形で、中央に心基礎があり、ほかに4個の側柱礎石が残っている。

史跡・弥勒寺跡入り口

中門

塔跡

 塔跡の西方に金堂跡があって、東西約15.5m南北約12.4mの立壇と、いま残っている礎石とによって、間口11m奥行8.5mの建物があったことがわかる。

塔基壇境界

塔跡礎石

金堂跡

金堂礎石跡

塔基壇境界

講堂跡

 講堂、経蔵、鐘楼、回廊、中門、南大門の位置も、堂塔の配置と出土した布目瓦などから白鳳時代(670年頃)の寺跡とされている。

経蔵跡

講堂廻廊基壇境界

 正倉院は、税として徴収された米を蓄えおく倉(正倉)が集まる、役所の中でも重要な意味を持つ場所です。東西約130m、南北約40mの溝で囲まれた東西に細長い範囲に、総柱建物が整然と立ち並んでいたと考えられていたとのこと。

 円空上人が、荒廃にまかせてあった池尻の白鳳時代の寺院跡である弥勒寺っを訪れ、元禄二年(1689)にこの寺を再興し、同八年七月に死期を悟って自ら入定したと伝えられるのが、この入定塚です。

円空上人入定塚

円空の墓への竹林

円空の墓