古がぎっしりの街道 

 中山道の御嵩町を通るうち、謡坂石畳など3.6kmの区間が国の史跡に認定されている。修復整備によって当時の風情を色濃く残している。歌川広重の浮世絵のモデルになったと推定される場所や、旅人の喉を潤した「一呑の清水」や、皇女和宮のために、特別に設けられた「御殿場」がある。

御嵩宿

 中山道四十九番目の宿場で、美濃国可児郡御嵩村(現:可児郡御嵩町)に存在。願興寺の門前町として発達した。中山道制定当初からの宿場であるとのこと。御嵩宿の中心にある本陣は、大名や公家、幕府要人の専用休泊施設として、代々野呂家が職務にあたったとされている。

 

中山道みたけ館

願興寺

商屋竹屋

商家竹屋

 明治10年頃の建築といわれている。金融業をはじめとした様々な事業を手掛ける総合商社であったとのこと。中庭をはさみ、主屋と縁で結ばれている茶室は、4畳半2部屋から構成されている。その奥に土蔵があり建築年代には主屋よりものちの大正年間頃と推定されています。

竹屋中庭の土蔵

竹屋中庭の茶室

和泉式部廟所

 平安時代の女流作家として、また情熱の歌人とたたえられた和泉式部は、東山道を旅する途中、この地で病に倒れ、現在の鬼岩温泉で湯治したもののなくなってしまったと伝えられています。

 井尻地内

 山間に田畑が広がる井尻地内を北進。井尻地内を700mほど行くと西洞地区への峠を越える。ここからが牛の鼻欠け坂です。

牛の鼻欠け坂

「牛坊、牛坊 どこで鼻かいた 西洞の坂で かかいた」あまりにも坂が急なため、荷物を背負って登る牛の鼻が地面にすれて、欠けてしまいそうになることから名づけられた。ここを境にして、江戸へと向かう東は山間地帯の入り口となる。

西洞の耳神社

 中山道西洞地内沿いの岩山に建立された耳の病にご利益があると伝えられる耳神社。全国的にみても珍しい神社とのこと。

 謡坂石畳

「牛の鼻欠け坂」からこのあたりへ続く坂が急なために苦しさを紛らわすために、唄をうたいながら登ったことから名づけられた地名と伝えられています。

聖母マリア像

 キリシタンの遺物が発見された場所。小原、西洞、謡坂地内から多くの遺物が発見され、この地に多くのキリシタン信者がいたことが判明。幕府の過酷な弾圧の中で信仰が続けられたのは奇跡と言え、全国でも非常に珍しい例。

石畳

 中山道の御嵩町を通る区間が国史跡に追加指定されています。ここは山間部を通る約3.6kmの区間で、風情のある「謡坂石畳」が含まれ当時の趣が感じられる。

謡坂馬頭観音窟

 謡坂石畳を東へ登ると、北側の高台の石窟に納められた二体の馬頭観音像がある。

安藤広重浮世絵モデル地

「木曽海道六拾九次之内 御嵩」安藤広重浮世絵

安藤広重浮世絵モデル地(2020-01-20撮影)

現在は「いろは茶屋」となっている

竹 林

 きちん宿から竹林を抜けて謡坂十本木(一里塚)を右に見てしばらくすると車道に出る。ここを右折していくと十本木立場にでる。
本木立場は人夫が杖を立て、駕篭や荷物をおろして休憩した所から茶屋なども設けられ、旅人の休憩場所として発展したそうです。

一里塚(謡坂十本木)

十本木立場

一呑の清水

 街道を旅する人々の喉を潤した清水。幕末の文久元年、皇女和宮降嫁の際、この清水を賞味され大変気に入られたと伝えられています。(現在は生水のままでは飲めません)

唄清水

「馬子唄の 響きに波立つ清水かな 五歩」と刻まれた嘉永7年の句碑が、清水の傍らにひっそりと佇んでいます。

御殿場跡

御殿場

 皇女和宮通行の際、この地に休憩用の御殿がたてられたことから、「御殿場」と呼ばれるようになったと伝えられています。

 

馬の水呑み場

 ここは物見峠といい、道路の両側に計五軒の茶屋があり、十三峠の前後のこの地であれば往来の馬もさぞのどが渇いたであろう。北側に三ヶ所の水飲み場が設けてあった。

津橋に向かう道

 御殿場から下り坂となり津橋まで標高差約100mほど下ることになる。

古民家

 物見峠(御殿場)から樹林帯や竹林など山道の下り坂となり約1㎞程で津橋地区の古民家の地域に出る。山間、でのどかな場所です。
(細久手宿に続く)